小学生でもわかる!「伊達政宗(だてまさむね)」

伊達政宗

はじめに

みんなは、学校で「やばい!宿題を完全に忘れた!」「朝寝坊して大遅刻しそう!」って、大ピンチになったことはありませんか? 怒られたらどうしようって、足がガクガク震えちゃいますよね。

でも戦国時代、なんと「天下人・豊臣秀吉の命令をすっぽかして大遅刻」という、怒られたら一発で命がない(死刑確実)という絶体絶命のピンチを、誰も思いつかない【前代未聞のウルトラC】で切り抜けた武将がいたのです!

それが、漆黒の黒い鎧に黄金の三日月兜をまとい、現代の「かっこいい・おしゃれ」を意味する言葉のルーツにもなったスーパースター、伊達政宗です!

政宗は、いまの山形県や宮城県、福島県にあたる「奥州」で生まれました。 織田信長や豊臣秀吉といった天下人たちよりも少し遅れて生まれたため、「もしあと20年早く生まれていたら、政宗が天下を統一していたかもしれない!」と多くの歴史ファンが夢見るほどの実力者でした。

政宗の魅力は、戦いの強さだけではありません。 ・幼い頃の重い病気で右目を失うという大きなハンディキャップを、強い心で乗り越えたこと ・怒られたら命がない絶体絶命のピンチを、度肝を抜くド派手なアイデアと度胸で切り抜けたこと ・現代の「伊達男」や「伊達メガネ」という言葉の語源になったこと ・海を渡って、地球の反対側にあるヨーロッパへ巨大な船を送り、貿易を結ぼうとしたこと

など、知れば知るほどワクワクするエピソードが山ほどあるのです!

今回は、ピンチを最高の知恵とパフォーマンスでチャンスに変えていった伊達政宗の、波乱万丈で最高にかっこいい生き方を一緒に見ていきましょう!

はると
はると
三日月の兜、黒い鎧に金色がキラリと光ってめちゃくちゃかっこいいよな!天下人に大遅刻して命のピンチになったのに、一体どんな方法で切り抜けたのかすげー気になるぞ!
ひまり
ひまり
ふふ、トレードマークの三日月兜は有名よね。でも政宗はただかっこいいだけじゃなくて、右目を失う大きな困難を乗り越えたり、頭脳プレーでピンチを脱出したりした知恵の人でもあるのよ。

「独眼竜」の誕生!病気に負けず奥州のトップへ

伊達政宗は1567年、現在の山形県米沢市にあった米沢城で生まれました。子どもの頃の名前は「梵天丸」といいます。

伊達家を継ぐ長男として期待されていた梵天丸ですが、5歳のときに命にかかわる大きな試練に襲われます。当時、日本中で恐れられていた感染症「天然痘」にかかってしまったのです。

高熱に苦しみ、なんとか一命は取り留めたものの、病気の後遺症で右目の視力を失ってしまいました。さらに右目の瞳が白く濁って飛び出してしまい、自分の見た目をひどく恥じるようになります。 「こんな姿では、立派な武士になんてなれない……」 梵天丸はすっかり内気になり、部屋に閉じこもりがちになってしまいました。

ここで、ちょっと片目を手で隠して、目の前にある鉛筆や消しゴムをパッと掴んでみてください。 ……あれ? 距離感が狂って、うまく掴めなかったりしませんか? そう、片目を失うと「遠近感」がつかめなくなってしまうのです。政宗はそんな大きなハンディキャップを抱えながら、馬を全力で走らせ、敵が繰り出す槍や弓矢を見極めて戦わなければなりませんでした。どれほど猛烈な努力と工夫を重ねたかが伝わってきますよね!

師匠と仲間の励ましで「強い心」を取り戻す!

そんな絶望の中にいた少年を救ったのが、周りの心強い大人たちでした。 教育係となった名僧・虎哉宗乙は、「中国の歴史には、片目を失いながらも国を治めた偉大な英雄がたくさんいる。見た目など気にせず、中身を磨いて立派なリーダーになりなさい!」と厳しくも温かく教え導きました。

また、生涯の右腕となる忠臣・片倉小十郎も、少年の心に寄り添い、武士として生きる覚悟を支えました。

周りの熱い思いに触れた梵天丸は、自分の運命を嘆くのをやめ、学問と武芸に必死に打ち込むようになります。

STEP 1 幼おさない頃ころの試練しれん!病気びょうきで右目みぎめを失うしない、ふさぎ込こむ
5歳のときに天然痘にかかり、右目の視力を失う。自分の見た目を気にして内気になり、部屋に閉じこもる日々が続いた。
STEP 2 師匠ししょうや仲間なかまの励はげまし!「強つよい心こころ」と教養きょうようを身みにつける
名僧の虎哉宗乙から「立派な武士になれ」と学び、片倉小十郎らの支えを受けて立ち直る。学問や戦術を猛烈に勉強した!
STEP 3 18歳さいでリーダーに!驚異きょういのスピードで奥州おうしゅうの覇者はしゃに
家督を継ぐと、持ち前の素早い決断力で敵を圧倒。「摺上原の戦い」で大勝利をおさめ、東北南部のトップに立った!

わずか23歳で南奥州の覇者に!

18歳で元服(大人の仲間入り)し、名前を「伊達政宗」に改めた彼は、父から伊達家の家督(リーダーの座)を譲り受けます。 ここからの政宗の快進撃は、まさに電光石火でした。

周りには手強い敵の大名がたくさんいましたが、政宗はためらうことなく攻め込み、巧みな作戦で打ち破っていきます。 23歳のときには、現在の福島県で行われた「摺上原の戦い」で大勝利!福島・宮城・山形にまたがる広大な領地を手に入れ、南奥州(東北地方の南部)のトップ(覇者)へと登りつめたのです。

片目でありながら、竜のように力強く大地を駆け巡る政宗の姿を見た人々は、かつて中国で片目ながら無敵の強さを誇った猛将(李克用)にたとえて、彼をこう呼びました。

「独眼竜政宗」

病気の苦しみも、見た目のハンディキャップも、すべてを自らの強い心で乗り越えた政宗は、名実ともに東北最強の武将として日本中にその名をとどろかせたのです。

はると
はると
子どもの頃に大きな病気で右目を失ったのに、くじけずに18歳でトップに立って東北をまとめちゃうなんて、めちゃくちゃ強い心を持ってるよな!
ひまり
ひまり
ええ、つらい出来事を言い訳にしないで、自分を磨くエネルギーに変えたのが本当に立派よね。信頼できる師匠や仲間の存在も、政宗の大きな力になったのね。
若き日の伊達政宗のイラスト

ピンチをド派手な演出で乗り切れ!「伊達男」の伝説

奥州の覇者となった政宗の前に、当時日本で一番の権力者だった「豊臣秀吉」が立ちはだかります。 秀吉は日本全国を統一するため、関東の北条氏を攻める「小田原征伐」をスタート。「全国の大名は小田原に集まって、自分に味方しろ!」と命令を出しました。

政宗は激しく悩みました。 「秀吉に従うべきか、それとも秀吉と戦って天下を狙うべきか……」 この決断に迷った結果、なんと秀吉の待つ小田原への到着が大幅に遅れてしまったのです!

戦国時代、天下人の命令を無視したり遅れたりすることは、「反逆」とみなされます。怒った秀吉に首をはねられ、伊達家がまるごと滅ぼされてもおかしくない、絶体絶命の大ピンチでした。

死を覚悟した「白装束」のパフォーマンス!

普通の人なら、慌てて逃げ出したり、苦しい言い訳を並べ立てたりするところです。しかし、伊達政宗の考え方は次元が違いました。

なんと政宗は、全身真っ白な着物(死装束=死んだ人が着る服)をまとい、秀吉の前に現れたのです! 髪も整えず、「大遅刻した罪は重々承知しております。いつでも首をはねてください」と、命を差し出す覚悟を堂々とパフォーマンスしてみせました。

秀吉は、杖の先で政宗の首元をつつきながらこう言いました。 「もう少し遅れていたら、ここが危なかったぞ」 秀吉は、政宗の度胸の良さと堂々とした態度、そして見事な演出力に圧倒され、処刑するどころか政宗の領地を認めて許してしまったのです。

普通ふつうの武将ぶしょうのピンチ対応たいおう
言い訳ばかりして責任から逃げようとする
怒られるのを恐れてビクビク震え、相手を余計に怒らせる
結果として厳しく処罰されてしまう
伊達政宗だてまさむねの神かみパフォーマンス
「白装束」を着て死ぬ覚悟をド派手にアピール!
逃げずに堂々と正面から相手の懐に飛び込む
肝っ玉の大きさと演出力で、相手を感心させて味方にする!

「サインの穴」で疑惑を完全論破!

政宗のピンチ脱出劇はこれだけではありません。 翌年、宮城県の北部で起きた反乱(葛西・大崎一揆)で、政宗は「裏で反乱をあやつっている黒幕ではないか?」と秀吉に疑われてしまいます。

秀吉の家臣から、決定的な証拠として「政宗が一揆軍に送った手紙」を突きつけられました。手紙には確かに政宗の花押(サイン)が書かれています。

ふつうなら真っ青になって腰を抜かす場面ですが、政宗は涼しい顔で手紙を受け取ると、こう言い放ちました。 「この手紙は偽物です!私の本物のサインには、鳥(セキレイ)の目の部分に針で小さな穴を開けてあります。ご覧ください、この手紙には穴がありません!」

秀吉が光に透かして手紙を確認すると、確かに針の穴はありませんでした。秀吉は「なるほど、悪者が政宗を陥れようとして偽造した手紙だったのか!」と納得し、またしても疑惑を晴らしてしまったのです。

(※実際には、政宗が本当に裏で手紙を書いていて、あとから言い逃れできるように穴を開けなかったという説もあります。どちらにせよ、信じられないほど頭の回転が速い知恵者だったことがわかりますね!)

おしゃれの代名詞「伊達者」のルーツ

その後、秀吉に従って朝鮮へ出兵するため、政宗率いる伊達軍が京都の町を行進したときのことです。 政宗の兵士たちは、きらびやかな金の細工や、当時としては超高級品だったヒョウ柄やトラ柄の毛皮を身にまとい、ド派手で洗練された姿で堂々と練り歩きました。

これを見た京都の人々は「なんと粋でかっこいいんだ!」と大熱狂! この出来事から、おしゃれで派手、そして気骨のあるかっこいい人のことを「伊達者」や「伊達男」と呼ぶようになりました。ファッション用語の「伊達メガネ」の「伊達」も、政宗たちのこのおしゃれ精神から来ているのです。

はると
はると
うおおっ、命がけのウルトラC、度胸がありすぎてかっこよすぎる!よーし、俺も次に宿題忘れたときは、真っ白な服を着て先生の前に立って…!
ひまり
ひまり
それ、反省どころかふざけてると思われて余計に怒られるから絶対にやめなさい!政宗が許されたのは、白装束の派手な演出だけじゃなくて、「いつでも命を差し出す」っていう本気の覚悟と堂々とした態度があったからなのよ!
はると
はると
うっ……やっぱり宿題はごまかさずにちゃんとやっていくか……。でも、サインの穴で疑いを晴らしちゃうところも含めて、頭の回転が速くてすげーよな!
ひまり
ひまり
ふふ、そうね!ピンチになったときこそ冷静に相手の心理を読んで、あっと驚く知恵で切り抜けるのが政宗のすごいところよ。「伊達男」っていう言葉が現代まで伝わっている理由がよくわかるわね。
伊達政宗

仙台の町づくりと、世界へ飛び出した大挑戦!

やがて戦国時代が終わり、徳川家康が江戸幕府を開いて天下が平和になると、政宗は「戦う武将」から「国を豊かにするリーダー」へと見事な転身を遂げます。

1601年、政宗はいまの宮城県仙台市に拠点を移し、「仙台城(青葉城)」を築きました。 仙台城は、崖と川に囲まれた険しい地形に作られ、天守閣を持たないかわりに豪華絢爛な大広間を備えた、非常に実用的なお城でした。

政宗は城を作るだけでなく、暴れ川の工事をして洪水を防ぎ、田んぼをどんどん切り開いて米作りを奨励しました。その結果、仙台藩は「実質100万石」と呼ばれるほどの大豊作地帯になり、日本屈指の大都市へと発展していったのです。

実は筋金入りの「お料理男子」だった!

そんなかっこいい政宗ですが、実は戦国武将の中でも群を抜く「大の料理好き」でした。

「ごちそうとは、旬のものをさりげなく出し、主人が自ら調理してもてなすことである」 という名言を残しているほどで、大切なお客さんが来るときは、政宗自身が厨房に立ち、包丁を握って腕を振るいました。

現代でも大人気の仙台名物「ずんだ餅」や、旨味がたっぷりの「仙台味噌」、岩出山名物の「凍み豆腐」などは、政宗が開発に関わったり広めたりしたと言われています。 美味しいものを食べてみんなを喜ばせたいという、心温まる一面を持っていたのですね。

巨大船で太平洋を横断!ローマへの大プロジェクト

政宗の視線は、日本国内にとどまらず、遠く海を越えた「世界」にも向けられていました。 1613年、政宗は巨大な西洋式帆船「サン・ファン・バウティスタ号」を建造します。国内の大工たちとスペイン人の技術者が協力して造り上げた、全長50メートルを超える当時日本最大級の黒船でした。

そして、信頼する家臣「支倉常長」を使節団のリーダーに任命し、遥か遠いヨーロッパへと派遣したのです。これが有名な「慶長遣欧使節」です!

常長たちは荒れ狂う太平洋を横断してメキシコに上陸し、さらに大西洋を渡ってスペイン国王、そしてイタリア・ローマのローマ教皇(キリスト教の最高指導者)と面会を果たしました。

Q. どうして戦国武将せんごくぶしょうがヨーロッパまで船ふねを送おくったの?
A. 仙台せんだいと海外かいがいを直接ちょくせつ結むすぶ貿易ぼうえきルートを開ひらき、最新さいしんの技術ぎじゅつや文化ぶんかを日本にほんに取とり入いれて、自分じぶんの国くにをもっと豊ゆたかにしようと考かんがえたからだよ。世界情勢せかいじょうせいを広ひろい視野しやで見みつめていた政宗まさむねならではの壮大そうだいなプロジェクトだったんだ!

当時の日本はキリスト教を禁止する方向へ舵を切り始めていたため、残念ながら通商貿易の条約を結ぶことはできませんでした。 しかし、鎖国へと向かう時代の中で、地球の裏側まで巨大な船を送り込み、世界と対等に渡り合おうとした政宗のスケールの大きな挑戦は、日本の歴史の中でもひときわまばゆく輝いています。

ひまり
ひまり
看護師を目指す私としても、片目の試練を乗り越えて、こんなに前向きに街づくりや世界への挑戦を続けた政宗の精神力には本当に感動しちゃうわ。ずんだ餅を作ってみんなを喜ばせる温かい心も素敵よね。
はると
はると
戦国武将なのに料理でみんなをもてなすなんて親近感わくし、巨大船でローマまで行かせちゃうなんてスケールがデカすぎるよな!俺もサッカーの試合でピンチになったりミスしたりしたときは、「政宗ならどうやって切り抜けるか?」を考えて、前を向いて胸を張って戦うぜ!
サン・ファン・バウティスタ号の実物写真
▲ サン・ファン・バウティスタ号ごうの実物写真じつぶつしゃしん(出典しゅってん: Wikimedia Commons)

まとめ

病気の苦難を乗り越えて奥州の覇者となり、ピンチを知恵とパフォーマンスで切り抜けた伊達政宗。 最後に、今日学んだ大切なポイントを振り返ってみましょう!

📝 今日のまとめノート
1 病気で右目を失う逆境を乗り越え、不屈の心で奥州の覇者「独眼竜」になった!
2 「白装束」や知恵のサインで絶体絶命を切り抜け、おしゃれで粋な「伊達男」の語源になった!
3 仙台の街とグルメ文化を発展させ、ヨーロッパへ船を送る世界規模の挑戦を行った!
🖍️ ✏️

政宗の生涯から学べるのは、「どんな大ピンチや困難にあっても、知恵と勇気、そして堂々とした態度があれば必ず道は開ける」ということです。 学校の勉強やスポーツ、友達関係などで思い通りにいかないことがあっても、政宗のように前を向いて、自分らしいかっこいい工夫で乗り越えていきたいですね!

はると
はると
ピンチのときこそビビらず、堂々と知恵を使って切り抜ける政宗の生き方、めちゃくちゃ勉強になったぜ!俺もサッカーの試合でピンチになっても、慌てずに胸を張ってプレーするぞ!
ひまり
ひまり
ふふ、はるとのその前向きなところ、とても素敵よ!ピンチをチャンスに変える強い心を持って、毎日を思いっきり楽しんでいきましょうね。
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